清洲城
清 洲 城

清洲城の施設と歴史

清洲城天守閣から見た平成20年初日の出直前の景色
ここでは、清洲城天守閣をご案内致します。
平成20年元旦に40〜50人ほどでしょうか、初日の出を見に訪れていました。
また、地元のグローバルテレビも新年の取材にきてました。
以下のご案内は、清洲城天守閣の最上階の階層から順次下へ案内します。
※ 初日の出の様子は、こちらをご覧下さい

主な清洲城主

清洲城の織田信長以降歴代城主を下記に記しました。
豊臣秀吉や徳川家康も、清洲城を東海道の押さえとして重視した人事を行っているのが興味深さを増します。

城主名 主な出来事 城主その後
織田信長 桶狭間の戦い 清洲同盟締結 小牧山城に移転
織田信忠   岐阜城に移転
織田信雄 清洲会議により、織田家家督を継いだ三法師(後の織田秀信)を後見 除封
福島正則 関ヶ原の戦い、岐阜城攻撃の後方基地となる 安芸広島城へ転封
松平忠吉 徳川家康・四男、病弱 病死
徳川義直 徳川家康9男、「清洲越し」と言われる移転を行う
尾張徳川家・初代藩主、徳川御三家
名古屋城主

天守閣1

天守閣4階

◆ 当時、名古屋鉄道株式会社・会長(旧清洲町在住)であった竹田弘太郎氏が、織田信長が唱った句を記している。(左)下の写真が少しオレンジの光が差しているのは初日の出の太陽の光が当たっているものです。今年は少しはいいことありそうですね。(↓)
清洲城天守閣の室内

◆ 清洲城西側から清洲城跡公園方面を見下ろしたところ。(↓)
清洲城天守閣の室内

◆ 清洲城階段。(↓)
清洲城天守閣から階下へ

天守閣3階

◆ 清洲城の鯱。(↓)
清洲城天守閣の鯱

◆ 清洲城天守閣の展示室。(↓)
清洲城天守閣の展示室

◆ 清洲城天守閣の鉄砲。(↓)
清洲城天守閣の鉄砲

天守閣2階

◆ 清洲城天守閣の信長と家臣。(↓)
清洲城天守閣の信長と家臣

◆ 清洲城天守閣のアルミ甲冑の作品。(↓)
清洲城天守閣のアルミ甲冑の作品

天守閣1階

◆ 清洲城天守閣での能面の展示。作品は清須市住民による。(↓)
能面

◆ 清洲城天守閣の甲冑見本展示。(↓)
清洲城天守閣の甲冑見本展示

◆ 清洲城天守閣(↓)
清洲城天守閣
※ 以上が清洲城天守閣の現況です。

旧清洲城史

◆ 清洲城の年表
西暦/年号事 例
1352年
文和2年
清須村が妙興寺(現一宮市)文書に見える。また、同時期に
伊勢神宮の神領を記した「神鳳抄」に「清須御厨」と記載があります。
1476年
文明8年
足利政権における尾張守護所を下津城(現稲沢市)から清洲城(現清須市)に移す。
1555年
弘治元年
織田信長が那古野城から清洲城に入る。
1560年
永禄3年
織田信長が清洲城により出陣し、今川義元を破る。
1561年
永禄4年
織田信長が松平元康(のちの徳川家康)と和議を講じました。
1562年
永禄5年
織田信長が松平元康と会盟し、姻戚関係を結びました。
1563年
永禄6年
織田信長は、東美濃攻撃の拠点として小牧山城を築城。
1567年
永禄10年
織田信長が、東美濃国岐阜城に入城。
1575年
天正3年
織田信長は、家督を長男・信忠に譲り、尾張・美濃を与える。この時、
信長は茶道具のみを携えて、家臣の佐久間信盛宅に居を移した。
1576年
天正4年
織田信長は、安土城に入りました。
1582年
天正10年
織田信長(49歳)、京都本能寺の変で自刃。織田信長長男・信忠は二条城で亡くなりました。この際、織田家の家臣は清洲城に会し、信長の後継者を次男・信雄(のぶかつ)とし、所領は尾張と定めました。(いわゆる清洲会議)
1583年
天正11年
豊臣秀吉は、織田信雄に長島城を与え、織田信雄は長島城を居城として尾張・伊賀・北伊賀の5郡を領有した。
1584年
天正12年
織田信雄は、清洲城で徳川家康と会見。家康は、小牧・長久手の戦いの間、長期に清洲城に駐留しました。
1585年
天正13年
大地震発生。この地震で長島城が壊れ、織田信雄は清洲城に居城を移して修理造営に身を入れました。
1586年
天正14年
豊臣秀吉と徳川家康の和平が成立。
1590年
天正18年
豊臣秀吉は、織田信雄に徳川家康の旧領岡崎は転封を命じるも、信雄が拒否したため下野那須へ追放され、佐竹氏に預けられました。これに伴い、豊臣秀吉の甥・羽柴(のちに豊臣)秀次が清洲城主となりました。
1595年
文禄4年
豊臣秀次が処刑され、福島正則が清洲城主となる。
1600年
慶長5年
関ヶ原の戦い。徳川家康は、福島正則を安芸の広島に転封し、徳川家康の4男・松平忠吉を武蔵国忍城から清洲城主に移しました。
1607
慶長12年
松平忠吉が江戸で病死。徳川家康の9男・徳川義直を甲斐の甲府城から清洲城主へと移しました。そこで徳川家康は、義直幼少のため甲府城代平岩親吉に犬山城3万石を加増したうえで、清洲城に住まわせて、国政の代行に当たらせました。朝鮮通信使が清洲を通過した折、清洲の繁栄を奇特に留めています。
1609年
慶長14年
徳川義直は徳川家康に従い、初めて清洲城に入りました。家康は、名古屋城築城地を検分したうえで名古屋遷府令を発令。
1610年
慶長15年
名古屋城が始まり、清洲からの藩士・寺社・町人などの名古屋移住、いわゆる清洲越しが始まります。
1612年
慶長17年
名古屋城の天守閣が完成。
1613年
慶長18年
清洲越しは概ね完了。
1614年
慶長19年
名古屋城本丸御殿完成。
1615年
元和元年
徳川義直が、清洲城から名古屋城に移りました。
大阪夏の陣
1783年
天明3年
清洲代官所が設置されました。
1833年
天保4年
清洲代官・朝田藤三郎は清洲城跡が荒れるのを防ぐために城址の周辺に石垣を設けました。
1847〜48年
弘化4〜5年
竹田晨業が清洲城址に「右大臣織田信長公古城跡」の碑を建立しました。
1862年
弘化4〜5年
林國次郎が「清洲城墟碑」を建てました。

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