美濃路,美濃街道

清須市の美濃路

旧美濃街道である「美濃路」には、かつて清須宿(きよすじゅく)がありました。清洲城の城下町でしたが、いわゆる清須越しによって町ごと名古屋城下に移転して、いったん清須の町は寂れましたが、、慶長7年(1602年)に美濃路の宿駅となって宿場町として再出発しました。

美濃路とは?

美濃路にある一里塚碑美濃路(みのじ)は、江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還です。関ヶ原の戦いでは、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市<旧尾西市>)から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で「吉例街道」とも呼ばれて、将軍上洛の折にも使われました。美濃路は、公用道として重用された街道で、朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが美濃路を通行しました。

象の道

享保13年(1728)にベトナムから長崎に上陸した象がいました。この象は、時の将軍であった徳川吉宗に献上されるために長崎から江戸まで陸路を歩いて移送されましたが、その旅の44日目の道中に清須宿で一夜を過ごしています。

この象の通行(1729年)の美濃路での行程は、宮宿で休憩・清須宿で一泊・稲葉宿で休憩・起宿で一泊・墨俣宿で休憩・垂井宿で一泊でしています。

象来日の理由

そもそも、江戸幕府の八代将軍・徳川吉宗が「象が見たい」と語った事からの象が切欠となり、来日の運びとなったとされています。1728(享保13)年に中国人商人がそれに応えて、ベトナムから長崎港へ番い(つがい)の象を連れてきました。

象来日後

しかし、メスの象は体調不良で3カ月後には死んでしまい、オスの象だけを江戸に連れて行くことになったといいます。この時、象は国賓級の待遇を受け、行く先々の宿場へは前もって「立派な馬屋を用意すること」「大量のエサを用意すること」「象は神経質なので馬や牛の鳴き声で驚かせてはいけないので通りから離れた所へ隔離しておくこと」などというお触れが出されていたといわれます。

その「象一行」には、中御門天皇(なかみかど)が「わらわも象が見たいぞ」と所望したため、江戸に向かう前に京都で御所に立ち寄るというもう一つの大きな役目がありました。けれども、御所の中には無位無官のものは参内する事が出来ないという規則があった美濃路の象 この従四位という位階というのは、そこそこ大きな大名並みのものでした。こうした経過で中御門天皇に朝見(ちょうけん)した象は、その後、中山道→美濃路を経て東海道を下り、箱根を越えて江戸へ入ります。その途中に、清須宿に立ち寄ったのです。

象の江戸での生活

江戸では、しばらくは「象ブーム」に沸き立ちましたが、いつの間にか沈静化して江戸城では「飼育費が掛かりすぎる」として民間払い下げを命じました。しかしながら、応募者の中には象を飼育できるだけの適任者がなかったため、そのまま13年間にわたって浜御殿で隠居生活を送り、天命を全うしました。 ちなみに、その時の飼育係は中野村百姓・源助といい、今日亡くなった象は中野区・宝仙寺で寺宝の1つとして象の頭骨と牙があり、供養されています。

大象の図 一龍斉芳豊 画 (尾西市歴史民俗資料館発行:美濃路−往きかう人々−)

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