新川
※ 日本一長い人口河川の最大に尽力者は、水野千之右衛門です。

清須市の生い立ち、旧西枇杷島町・旧新川町・旧清洲町の歴史

平成17年7月7日に新たに清須市が誕生しました。
清須市の現在とその歴史を紹介します。

清須市の生い立ち

平成17年7月7日に旧3町(西枇杷島町、新川町、清洲町)が合併して清須市が誕生しました。旧町はそれぞれ100年余の歴史を刻みましたが、旧西春日井郡7町のうち、当初は7町ではじまった協議も豊山町が抜け、その後分裂、やっとたどり着いたのが3町での合併でした。

地域の主な歴史

旧西枇杷島町

◆ 1889年(明治22年)10月1日 町村制施行により下小田井村・小場塚新田村が合併し、西枇杷島町が成立しました。

枇杷※ 「枇杷島」命名の由来: 名古屋と西枇杷島の間を庄内川に中島と呼ばれる中州がありました。昭和初期の西春日井郡の郡役所が置かれていたところです。そこには食堂や医者なども営まれていたといわれます。治水の安全上、中島の撤去によって食堂も医者も移転し、中島は取り払われました。
その中島は枇杷(果物)の形をしていたといわれます。また、琵琶(楽器)も、枇杷を半分にしたような形をしていますが、小場塚新田村の市寸神社に琵琶にまつわる言い伝えもあります。それを象徴するモニュメントがこれ(→)です。これらを総合的に判断して命名されたようです。

【枇杷島市場】
枇杷島市場といえば当時は下小田井の市といわれ、その後300年の歴史を誇りました。現在も名古屋市北部市場として西春日井郡豊山町に名古屋市が設置しています。その前進は清須市を構成する旧西枇杷島町にあります。現在も地域の名に問屋とあるのはまさにその名残りです。

そこで、少し年表でその歴史を追ってみましょう。
1611年 慶長16年 この頃青物市(のちの枇杷島市場)始まる
1909年 明治42年 「愛知県市場取締規則」公布
1910年 明治43年 同規則により「枇杷島市場」認可
1923年 大正12年 「中央卸売市場法」公布
1926年 大正15年 「愛知県食品市場規則」公布
1942年 昭和17年 名古屋市中央卸売市場設置計画案可決
1950年 昭和25年 北分場(のちの枇杷島市場)建設地、西区上更通に決定
1953年 昭和28年 北分場起工
1954年 昭和29年 北分場「枇杷島市場」と改称、第1期工事完了
1955年 昭和30年 枇杷島市場開場

ここで示された枇杷島市場の枇杷島の名は、昭和30年まででそれ以降は旧西枇杷島町の枇杷島ではなく、名古屋市西区枇杷島と称される地名からでした。

その後、昭和58年に西春日井郡豊山町に名古屋市北部市場が開設されるまでの300年にわたって枇杷島市場の名が残りましたが、旧西枇杷島町の問屋街から程近く、市場関係者がいまでも旧西枇杷島町に住む人がいるのはこうした経過があるからです。

いまでこそ流通が大きく変わりましたが、まさに天下の台所を預かる人たちが威勢良くセリで大声を張り上げていた光景がありました。商店が建ち並んでいましたが、その後、大型店の進出による影響や商店主の高齢化、さらに平成12年の東海豪雨水害を契機とした庄内川補強工事の影響などで旧問屋街周辺はかつての名残りはなく民家の改築と堤防周辺の改修が進んでいます。

東六軒集会所と泰亨車山車蔵尾張西枇杷島まつり
枇杷島市場の地域文化への影響は、「尾張西枇杷島まつり」に表れています。尾張西枇杷島まつりは、かつて地域の市場などに関係するお大尽が出資して、神社の天王祭から始まったとも。現在は、毎年6月の第一土・日曜日に行われており、橋詰、問屋、東六、西六、杁西の各町内会を中心に5両それぞれの山車を牽きます。

【西枇杷島歩道橋】
清須市には日本一がもう一つあります。日本で一番古い歩道橋
昭和34年に建設されましたが、当時の国道22号で小学生が交通事故死したことをきっかけに親などからの陳情が実る形で建設されました。西枇杷島小学校への導線となっていることから、当時は学童歩道橋と呼ばれたそうで、西枇杷島小学校の南西側にあります。やがて付近の道路改良によってJR東海道線のアンダーパスが出来るために、取り壊されると聞き及んでします。日本初の歩道橋

旧新川町

◆ 1889年(明治22年)10月1日 西春日井郡土器野新田村・上河原村・中河原村・下河原村が合併、新川村に。その後、合併することとなる寺野村・助七新田村が合併して、寺野村に。また、須ヶ口村・西堀江村・阿原村が発足しました。
1890年(明治23年)12月17日 町村制が施行され新川村から、新川町に。
1900年(明治33年)7月28日 須ヶ口村・西堀江村が合併、桃栄村に。
1906年(明治39年)4月1日 新川町・桃栄町・寺野村・阿原村が合併して、新川町に。

【新川】
旧新川町の名の由来ともなっている新川があります。
この「新川」は庄内川の支流になりますが、矢田川、庄内川の上流が窯業地帯であったために土砂の流出が激しく、雨が降ると、すぐに川の氾濫して洪水被害が続いたといいます。特に、宝暦7年、明和4年、安永8年、天明2年と災害が続き、庄内川沿いの町や村は困窮を極めたといわれます。
そこで、尾張藩士水野千之右衛門は、9代藩主徳川宗睦に堀割りをつくる請願をしました。その後、尾張藩主9代徳川宗陸は、水野千之右衛門を勘定奉行に、人見弥右衛門を参政として庄内川の洪水を防ぐ工事を行うこととなりました。工費は、40万両を越える巨額な費用となりましたが、勘定奉行として任に当たった水野千右衛門は天明7年は新川の開削工事を完成させました。

【新川開削本陣跡】
新川開削工事を行うにあたって置かれた新川開削本陣には、土器野新田の庄屋役であった伊藤権左衛門宅が当てられました。現在のUFJ銀行尾張新川支店の辺りです。
新川開削本陣跡:現東京三菱UFJ銀行尾張新川支店

旧清洲町

◆ 1906年 (明治39年)7月16日 西春日井郡 清洲町・朝田村・一場村が合併し清洲町が成立したのち、 1909年(明治42年)10月1日 中島郡大里村の一部(西市場)が編入、1919年(大正8年)10月 海部郡甚目寺村の一部(廻間)が編入、1943年(昭和18年)1月1日 海部郡甚目寺町の一部(土田・上条)が編入しています。

◆ 旧清洲町は、何といっても清洲城と織田信長公に関わった施設整備が多いのが特徴です。清洲城清洲古城跡公園清洲公園などがあります。

【JR清洲駅】
JR東海道線の清洲駅は、かつては駅名どおりに清洲町内にありましたが、昭和9年に現在の稲沢市内に移転することに伴い、駅舎の費用の全面負担を条件に清洲駅の名がつけられています。
移転の理由は、企業誘致であったようで旧国鉄の貨車が企業に出入りしやすいように配慮されたように思われます。この路線は2007年4月現在も荷役設備と共に残っているようです。

サイトMENU

Copyright (C) 2007 「清須市インフォ」 All Rights Reserved.